共感性羞恥だけじゃない。恋愛ドラマがしんどい私の理由

感じたこと、考えたこと

「恋愛ドラマが苦手」って言うと、ちょっと変わってるように思われがちだけど──
みんな言わないだけで、実は“こっそり苦手”な人って案外いるんじゃないかな〜🤔
なーんて、淡い期待をしつつ…私の「違和感ポイント」をなるべく言語化してみた。


こっちが見たくて見てるとき…じゃないときに、そういう展開になったら変な汗が出るし、体がソワソワして落ち着かなくなる。特に、甘〜いセリフが来そうな場面になると、心がぎゅっと丸まる感覚があって、無理、直視できない。

これってもしかして「共感性羞恥」ってやつかもしれない──と思って調べてみたら、まぁ…ちょっと近い気が。

※共感性羞恥とは…
他人の失敗やイタい言動を、まるで自分のことのように感じてしまい、強い恥ずかしさや居たたまれなさを覚える心理反応。
「こっちはただ見てるだけなのに…なんでこんなにソワソワするんだ!」ってなる、感受性が高い人ほど感じやすい現象です。

でも実は、私が本当に苦手なのは「照れる」ことじゃない気がする。


たとえば恋愛ドラマには、感情を動かすための“演出”がぎっしり詰めつめ。

”甘いセリフ”
”意味深な間”
”ドラマチックなカメラワーク”
”感情をあおるBGM”
……全部が、「ここでキュンとしてね♡」という空気をこれでもかと作ってくる。

その“ときめきの強制”みたいな感じが、私はどうも…🙅‍♀️。

こっちの気持ちがまだ動いてないのに、感情を押し込まれるような圧がくる。だから居たたまれない。だから「うわぁ…無理…」ってなってしまう。

感情は、自分のタイミングで動くから。ここで乖離が起きる。


「カッコつけ」と「カッコよさ」って、似てるようでまったく違うじゃん?

  • カッコいい:自然体の中から滲み出るもの
  • カッコつけ:誰かに“見せる”ことを前提とした振る舞い

前者は見ていて心が動く。でも後者は、「見てくれ!」の意図が透けて見えるせいで、こっちの感情がついていけなくなる。

あー今回も離脱したわ…。そういう場面が何度もあった。

顔がいいのはわかる。たしかにかっこいいよ、うんうん。
ただその顔に「キュンするでしょ?」って空気まで乗せてくるのは…やっぱ違うんだわ…

感情って、ほんとは自分の中から自然に湧いてきてこそ意味があるのに。

決めつけにかかって来られてるのがわかってしまうと(あるいは落としに来られると)、うんざり…というか、しんどさになる。

落としにきてる演出とか、押し気味の空気とか、
「はい、ここで刺されてください」みたいなテンプレ展開とか──

…いやいや、そう簡単に落ちねぇぞ、私の感情は。


推しのシーンで「ドキッ」とするのはむしろ正義。優勝。

その違いはなにかと考えると、やっぱり“感情の出どころ”なんだと思う。

  • 推しの“ドキッ”は、自分の中から湧いた感情だから受け止められる
  • 演出の“ドヤッ”は、こちらの準備ができていないうちに感情を押し込んでくるからしんどい

どっちも「胸が高鳴る」シーンのはずなのに、
その“空気の違い”で、見てられるかどうかがまるっきり変わってしまう。


じゃあ、どうして“推しのときめき”は平気なんだろう?
(単純に言うと、好きだから。以外なんかある?)

たぶん私、
感情は“自分の内側から自然に湧いてきてこそ、自分の思い”だと思ってるんだよね。

誰かに「今ときめいて」「ここで泣いて」って言われると、
その瞬間に気持ちが遠ざかってしまう。

私だって、キュンキュンするときはある。たまに。笑
でもそれは、自分の感情が移入できたときにしか起こらない。

ときめくタイミングくらい、自分で決めさせてほしいんだよ。

だから、恋愛ドラマに巻き込まれるような“押し演出”が嫌なのだ。


きっと私は、「感情の自由」が欲しい人なんだと思う。

だから、“自然に動いた気持ち”は大切にできるけど、
“コントロールされそうになる感情”にはバリアが発動してしまう。

たかが恋愛ドラマ、されど恋愛ドラマ。自分の中の大事にしてる感覚に気づけたの、ちょっとよかったなって思う。

そんなふうに、あなたの感情を守ってくれている“センサー”があるとしたら──
ちょっと自分に素直になって見つめてみると面白い発見になるかもしれない。



まぁ…無理に“ときめかされる”必要なんて、どこにもないから。


(“見せるカッコよさ”じゃなくて、積み重ねるカッコよさの話)↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑