恋愛ドラマが苦手な人、いませんか?
私もそのひとりです。
でも、単なる好みじゃない気がして。
自分の中で、
毎回ある“感覚”が
発動しているような気がするんです。
今回は、「カッコつけ」に対して
なぜか照れてしまう
その理由について
共感性羞恥というキーワードから
考えてみました。
恋愛ドラマが見られないのはなぜか
「恋愛ドラマが苦手」──
かく言う私も、それでして。
もうね、見てられない。気恥ずかしくて。😩
鮮明に言うと、
恋愛に限らず
“自意識が前に出てくる演出”が
どうも苦手だ。🤔
たとえばセリフのあとに
わざと沈黙を入れるとか
意味深な間を取ってから
グッと距離を詰めてくるとか
もうその時点で
私は気まずさで座り直して
リモコン探す。
「はい、いまこの感情に共感してね」
🗣️
「…あの…無理やり共感させないで
もらえます?🫣…ってなる」
なんか圧をかけられてるような
そんな“見せられてる感”があると
どうにも居心地が悪くなる。
「かっこいい」と「かっこつけ」のちがい
「かっこいい」のと
かっこ「つけ」は
また違うじゃん?
──また…(ややこしい世界…)🤦♀️
//////私、「カッコつけ」ってやつが、
ほんっとに苦手。//////
いや、わかってる。
表現として必要なこともあるし、
演出として成立してるのも理解はしてる。
でもそれでもなお、
「もしかして私、
今この人の“キメ顔”に
付き合わされてる……?」
って思った瞬間、
📱チャンネル変える。📺
「こう見られたい」が見えすぎると、
受け手側も“見せられてる感”を
強制的に受け取らされてしまう。
こっちが照れてしまう演出たち
本人じゃないのに、「カッコつける」様子に
なぜかこっちが恥ずかしくなって
全力で顔をそむけたくなる
あの感覚が、私はどうも、苦手なのだ
✅【かっこいい】 自然に滲み出てる
本人は狙ってない(ように見える)
行動や姿勢そのものが魅力的
一緒にいても疲れない
こっちが照れない
🧘♀️例:気づいたら誰かのために動いてる人、
無駄なことも全力でやる人
🚨【かっこつけ】 「見られる前提」の
振る舞い
セリフ、仕草、間すべてが“演出”寄り
自意識が強く出てる
見てる方が気恥ずかしくなる
圧がくる(なんか…がんばってるなぁって)
🫠例:“伝える”より“見せる”が前に
出ちゃってる感じ
“中身”より“外側”を感じすぎてしまって、
耐えられないやつ
💡つまり:
かっこいい:自然体の魅力
かっこつけ:演出された自意識
そして私は、たぶん…
✨「自分を見せようとしてない人のほうが、
結果として魅力的に見える」
っていう感覚を持ってるんだと思う🌿
だから“かっこつけ”の瞬間に、
羞恥バリアが発動する!💥
これは「共感性羞恥」っていうよりも、
“羞恥バリア反応”とか
“感情の押し売りに対する自己防衛”
みたいなものかもしれない。
見たくて見てるわけじゃないのに、
巻き込まれた瞬間に
「うっ……もう無理……」ってなる。
共感なのか過敏なのか、
もはや自分でもわからないけど、
それくらい、
感情に“巻き込まれやすい体質”
なんだろうなって思ってる。
推しに照れるのと演出に照れるのは違う
ちなみに、
「なんか恥ずかしくて見てられない」って、
推しのかっこよさに照れてるときと、
カッコつけにバリアが発動してるとき、
似てるようでまったく違う。💥
前者は、見せられてるんじゃなくて、
「うわ、かっこいい…」って
自分の内側から湧く感情。
こっちの「好意」が前提になってるから、
“照れ”も愛しくて受け入れられる。
→ 愛ゆえの「見れない」。🥹
後者は、「見せるぞ〜〜✨」っていう演出や
自意識が透けて見えてしまって、
それに対して
「うぅっ…」ってなってしまう。
自分の気持ちが動く前に、
“圧”として与えられる感情だから
しんどい。
「好き」とかじゃなくて
「ちょっと待ってくれ…」ってなる。
→ 羞恥バリア的な「見れない」。🥶
見てられないのは同じ。
でも、気持ちの出どころが違うのだ。
✔ 推しのかっこよさには
照れるけど受け入れられる
→ 愛♡ゆえの照れだから。
✔ カッコつけには羞恥バリア発動する
→ 愛がないのに押し込まれる照れだから。
つまり、愛があると照れも愛おしい。
愛がないと、
照れが“押し売り”に感じて
しんどくなる。
……やっぱり、
受け止められるかどうかって、
結局そこに
“愛”
があるかどうか、
なのかもしれない。
✨あなたは、「照れて見られない」もの、
ありますか?😇
(“見せるカッコよさ”じゃなくて、
積み重ねるカッコよさの話)
